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日常の記録。

なんで死ぬのが悲しいのかとか(結論無しの雑文)

クラスメイトにお薦めされて『フラジャイル』という病理医が主人公の漫画を読んでいる。

 

主人公の一人の岸先生は口も悪いし態度も恐いんだけどたまに優しくして緩急つけてくるタイプで、普段から優しい人よりもこういう人の優しさのほうが揺さぶられるのよね。

 

さて、それはそれとして。

 

病院の話だから何話かに1回くらい患者さんが死ぬんだけど、まーぁ悲しくなる。

 

でも、なんで悲しくなるんだろう?と読みながらふと思う。

 

人が死ぬってなんで悲しいんだろう。

 

というか、他の人がどう思うかは知らないけど、なんで自分は悲しいと思うんだろうか。私自身が死にたがりの生き損じの死に損ないみたいな奴なのに、なぜ人の死が悲しいという感情が湧くのか…

 

正解は無いんだろうし、明日の自分と5年後の自分と10年後の自分とその更に先の自分では言ってることが全然違う可能性が高いけど、今日今の時点での考えとしては「死んだら明日はもうその人に会えないから」だと思った。「心の中で会える」とかそういうのはナシで、物理的にはもう会えないじゃん。動画があっても、AIでその人のビッグデータ集めてそれっぽいもの作っても、もうその人本人とは永遠に会えない。その人の目に自分が映ることもなければ、その人のその時その瞬間の思いを聞くこともない。AIに喋らせても、それは「その人が言いそうなこと」の範疇を超えることは出来なくて、本物ではない。

 

「明日はもうその人に会えない」

 

なんとなく、それが寂しいんだと、今の自分は思った。

 

だれかと一緒に何かを学んだり、仕事をしたり、遊びに行ったり旅行をしたり、一緒にご飯を食べたり、ただおしゃべりしたり、酒を飲んだりして、楽しかった〜!と思う瞬間がある。中毒性のある時間。

 

そんな時はなんとなくその場を去り難く、もう少しそんな時間が続けばいいのにな、解散か、と思いながら家路につく。生きていればまたそういう日もあるかもしれないけれど、死んだらその人との同じような日はもう永遠に来ない。

 

私は好きなものをグズグズと保有しておきたがるタイプで、ケーキを食べる時にイチゴを最後まで残しておいたり、半熟の卵があったら出来るだけ後の方に崩す。

 

要は楽しみを後に取っておきたいし、何度も繰り返し味わいたいとか思うタイプなので、

 

楽しい時間がなくなってしまう、しかも永遠に、というのが、悲しい。

 

ショートケーキのイチゴも、崩した半熟の卵も、なくなってしまうと「ああ、もうなくなっちゃった…もうないんだ…」と思うくらいのメンタルなので、一緒にいて楽しい人と明日はもう会えない、というのは悲しさの極みである。イチゴや卵と一緒にすんなと言われそうだけど。

 

ヒトも生物の一つである以上、種の存続こそが存在意義で、楽しかろうと楽しくなかろうと、個人個人が何を思おうと、そんなことは関係なく、ヒトという種が100年後も1000年後もできるだけ地球上に残れるように活動するようプログラミングされている。いつか絶滅するかもしれないけど、出来るだけそうならないように、少しずつ新しい遺伝子の個体を作りながら、生まれて、死んでいく。

 

それだけが目的のはずなのに、ヒトは言語や感情を発達させて、随分余計な機能が備わってるなぁと思ったり。違うか。そういう機能があるから種として繁栄できてんのか。

 

楽しいも悲しいも、苦しいも、他の色々も、種の存続のためにある機能なのか…。

 

難儀な生物に生まれたものよなぁ…。