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日常の記録。

拠り所

20代半ばの頃、同じ思考の癖や偏りを持った人たちだけで集まる自助グループに参加していた時期がある。

 

自助グループというのは、同じ疾患だったり障害だったり中毒だったりなんかを抱えている当事者だけの集まりというか。調べれば分かりそうだけど調べず書いてすみません。

 

ともかく似た背景を持つ当事者だけで集まって話すという会だった。匿名で、お互いの素性は一切明かさない、そこで聞いた話はその場限りにする、というルールで運営されていた。

 

自分の感じている違和感、おかしさ(異常性とも言える)、苦しさを言葉にしなくても自然と理解してもらえて、すごく楽だった。ツーカーとまではいかないけれど、発した言葉の背景を細かく説明しようとしなくても汲み取ってもらえてすごく楽だった。コミュニケーションの労力が少なく済んで、理解してもらえるのはこんなに楽なのかと思った。

 

時々、会の後に食事に行った。会の活動中には話さない他愛のないお喋りをしたりした。会話の最中、思考の偏りがあると、他の参加者が「それそれ、ウチらにありがちな考え方してる〜!」とツッコんでくれたりして「あ、ホントだ、いけないいけない(笑)」みたいなやり取りが度々あった。

 

当事者じゃない人に言われると、本当はわかりもしないくせに、自分は困ってないから言えるんだ、困ってない立場だから言える上から目線、自分の悪いところを指摘された、などなど、つい嫌な気持ちで受け止めてしまうような会話も、当事者間で交わされるとなんとなく痛快というか、いっそ清々しくて心地良かった。当事者同士で交流するというのは、なんとなく元気が出るし、あの頃の自分には絶対必要な過程だったと思う。

 

その会をきっかけに少しずつ何かが変わってきて、新しいことを始めたり、人との関わり方が変わったりし始めた。今の自分とその会以前の自分は違う人間だと思うし、今の自分の最初の一歩があの自助グループだったと思う。

 

時々、昔の自分に引き戻されそうになる時にグループでの活動やみんなで行った食事での会話を思い出す。気持ちが楽で、緊張しなくて、楽しかった。もうあの時に一緒にいた人たちと会えることはない。もし会えたとしても気付けないかもしれない。みんなどうしているだろう。

 

以前、また参加したいと思って調べたら、私が参加していた地域の会はなくなっていた。元々誰も集まらなければなくなるような会だから、引き継ぐ人がいなかったんだろう。コロナの影響もあったのだろうと思う。

 

もう二度とあの時の心地良さは訪れない。寂しいけれど、そこに参加し続けなくても生きていられるのは良いことだ。そこで見たものや交わした言葉を時々思い出して自分を勇気付けながら生きていく。