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日常の些事。

「生きてる」が肌に馴染んだ気がする

最近になってようやく「生きる」がどういう感覚かわかってきた気がする。

 

ずっと希死念慮が強くて、ずっと何か行動する時の選択肢、分かれ道の一つに「死ぬこと」があって、いつも「死ぬこと」「自分が居なくなること」が当たり前のように選択肢にあって、その感覚がずっと怖かった。

 

「死ぬこと」が当たり前に選択肢の中にあるくせに、そうなることが怖かった。喉が渇いた時に、「水を飲む」と並列で「死ぬ」があって、いつ自分が「水を飲む」代わりに「死ぬ」を手に取るのか怖かった。

 

「死ぬこと」「希死念慮」が行動の選択肢に入っていない感覚が、ずっと分からなかった。

 

でも最近になってようやく、希死念慮が自分の傍に無い感覚が自分の中に生まれてきたように感じる。喉が渇いた時「水を飲む」代わりに「お茶を飲む」「ジュースを飲む」が並列する世界に、今は居る気がする。

 

それはどこか少し、心が安らぐ感覚だと感じる。この感覚を、自分がどれほどまでに欲してきたか。欲しくて欲しくて堪らなくても手に入らなかった、冀ったもの。

 

何かきっかけがあって突然変わったというよりは、気が付いたらそうなっていた。そういえば最近、選択肢の中に「死ぬ」が居ないなって。ふと思った。

 

人には分からない感覚かもしれないけれど、自分の中でこの安心感はとてつもない。「当たり前に生きている自分」を感じられる。これが、どれだけすごいことなのか。ようやく、人としてのスタートラインに立てたような。

 

前は、いくら希死念慮なんか無い、無い、無い、自分がおかしいと思いたいだけなんだと思っても拭えなかった感覚、あるいは「もう無くなったんだ」とどれだけ思っても形状記憶のように元に戻ってしまう感覚だったけど、今はなんだかスッとそれが無くなったような感覚で、また元に戻ってしまうかもという不安が無い。スッキリしている。もしまた元に揺り戻されても、今の私なら踏ん張れる気がする。「死ぬ」って選択肢が道を作ろうとしてきたら「ちょっと今呼んでないからあっち行ってて」と払いのけられる気がする。

 

でも「生きたい」という能動性、まではまだ至っていない。自分から「死ぬこと」を手に取ることはないけど、訪れてしまったら「ああ、そうですか」と受け入れてしまう感覚はある。

 

ただ、「生きてる状態の自分」を受け入れられるようになった。その状態に違和感が無くなった。

 

能動的に「生きる」を掴みには行けないけれど、今はこれで十分だと思う。ここまで来られたこと、上出来だと褒めてやりたい。